函谷関の戦いは25巻262話から|合従軍5カ国の配置と対戦結果・30巻320話で蕞へ移る【キングダム】
この記事には『キングダム』単行本25巻から33巻、合従軍編の結末に関する内容が含まれます。
『キングダム』の合従軍編で描かれる函谷関(かんこくかん)の戦い。五か国が手を組んで秦に攻め込み、秦が国門一つで受け止めるという、作中でも最大級の規模で描かれた防衛戦です。
この記事では、函谷関の戦いが何巻何話で描かれるのか、どの将軍がどこで戦ったのかを整理します。そして史実の函谷関の戦いは実際に複数回あり、そのうち紀元前241年の戦いが作中の合従軍編に対応します。史実側の記録もあわせて調べました。
結論
- 合従軍編は単行本25巻・第262話から始まります。函谷関での攻防のあと、戦いの舞台は蕞(さい)へ移り、33巻の第352話前後で決着します。
- 秦は函谷関を守り切り、合従軍は撤退します。ただし麃公と張唐という二人の将軍を失いました。
- 史実にも函谷関の戦いは実在します。合従軍が秦を攻めた戦いは4回あり、作中に対応するのは紀元前241年の戦いです。史実でもこの戦いは秦の勝利に終わっています。
函谷関とはどんな場所か

| 名称 | 函谷関(かんこくかん) |
|---|---|
| 役割 | 秦の東側の防衛拠点となる関所 |
| 史実での位置づけ | 合従軍が秦を攻めた4回の戦いすべてで主戦場となった |
| 作中での役割 | 五か国連合軍を正面から受け止める国門 |
| 作中の総司令 | 昌平君(咸陽から全体を指揮) |
| 合従軍の総大将 | 李牧(趙) |
函谷関は、東から秦へ入ろうとすればどうしても通らなければならない位置にありました。裏を返せば、ここさえ抜かれなければ首都・咸陽は守られるということです。作中でも史実でも、この一点に戦いが集中しています。
合従軍編と函谷関の戦いは何巻何話?
合従軍編は単行本25巻・第262話「超大国の侵攻」から始まります。そこから約90話にわたる長期の章となり、33巻の第352話「不抜」前後で決着します。
| 段階 | 巻・話数 | 内容 |
|---|---|---|
| 合従軍編の開始 | 25巻・第262話「超大国の侵攻」 | 五か国が秦を攻めることが判明する |
| 函谷関攻防 | 26巻から30巻ごろ | 合従軍が関を正面から攻める |
| 麃公の死 | 30巻・第325話 | 龐煖との一騎打ちに敗れる |
| 蕞へ舞台が移る | 30巻・第320話「首謀者の行方」 | 咸陽に南道からの強襲が知らされる |
| 決着 | 33巻・第352話「不抜」 | 合従軍が撤退する |
「函谷関の戦い」と「蕞の戦い」は続けて描かれますが、別の戦場です。函谷関を正面から攻めながら、李牧が別働隊を南の山道から回り込ませたことで、戦いが二段構えになりました。
函谷関の戦いの配置と対戦結果
合従軍は楚・趙・魏・燕・韓の五か国です。秦側は六大将軍がすでにいない状態で、この大軍を受けることになりました。主な対戦は次のとおりです。
| 合従軍側 | 秦側 | 結果 |
|---|---|---|
| 汗明(楚) | 蒙武 | 蒙武が汗明を討ち取る |
| 龐煖(趙) | 麃公 | 麃公が討たれる。麃公は龐煖の腕を折っている |
| 成恢(韓) | 張唐 | 張唐が成恢を討つが、張唐自身も毒によって命を落とす |
| 呉鳳明(魏) | 桓騎ほか | 井闌車による攻城に対し、火を用いた迎撃で対抗する |
| オルド(燕) | 王翦 | 王翦がオルドとの膠着から離脱し、函谷関の裏へ向かう |
| 媧燐(楚)の別働隊 | 王翦 | 関の裏へ回り込んだ精鋭部隊を王翦が待ち構えて阻止する |
| 項翼(楚) | 騰 | 五千の兵を与えられた項翼が騰を足止めする |
麃公の死
函谷関の戦いで最も大きな損失が、麃公の戦死です。趙の武神・龐煖との一騎打ちに挑み、龐煖の腕を折るところまで追い込みながら、致命傷を受けて命を落としました。単行本30巻・第325話で描かれています。
麃公は信にとって「本能型」の戦い方を示した将軍であり、その死は主人公側にとって単なる戦力の喪失以上の意味を持ちました。
王翦が関の裏に回った理由
函谷関が落ちなかった決め手は、王翦の動きでした。燕のオルドと向き合っていた王翦は、その膠着を利用して戦線を離れ、関の裏側へ向かいます。そこには媧燐が送り込んだ精鋭の別働隊が到達しつつありました。王翦がこれを阻止したことで、函谷関の内側からの陥落が防がれています。
蕞の戦いへ
李牧の狙いは函谷関を正面から落とすことだけではありませんでした。本命は、南の山道を抜けて咸陽へ直行する別働隊です。この進路上にあったのが蕞という小城でした。
正規の兵力が函谷関に張りついている状況で、秦王・嬴政が自ら蕞へ向かい、住民に対して直接呼びかけて戦力を組織します。数の上では絶望的な守城戦でしたが、最終的に李牧が全軍を撤退させ、合従軍編は秦の防衛成功という形で終わりました。
史実では? 函谷関の戦いは4回あった
函谷関の戦いは架空の出来事ではありません。複数の国が同盟を組んで秦を攻めた戦いは合従攻秦の戦いと呼ばれ、記録に残るものだけで4回あります。
| 年 | 参加国 | 中心人物 | 結果 |
|---|---|---|---|
| 紀元前318年 | 楚・韓・趙・魏・燕など(実際に出兵したのは魏・趙・韓) | 提唱は公孫衍、総大将は楚の懐王 | 秦の勝利。樗里疾が函谷関から反撃し、修魚で趙・韓軍を大敗させた |
| 紀元前298年から296年 | 斉・韓・魏 | 斉の孟嘗君が主導、総大将は匡章 | 合従軍の勝利。秦は塩氏城を失い、魏に封陵、韓に武遂を割譲して和を求めた |
| 紀元前247年 | 魏・趙・韓・楚・燕 | 信陵君が上将軍 | 合従軍の勝利。黄河南で秦軍を破ったが、秦軍は函谷関を堅守して出撃しなかった |
| 紀元前241年 | 趙・楚・魏・韓・燕 | 楚の考烈王が総大将、春申君が実務を担当 | 秦の勝利。函谷関で秦軍が攻撃し、合従軍が敗北した |
『キングダム』の合従軍編に対応するのが、この最後の紀元前241年の戦いです。参加国が趙・楚・魏・韓・燕の五か国という点も作中と一致しています。
紀元前241年の戦いで起きたこと
史実の経過を整理すると、作中との重なりがはっきり見えてきます。
| 史実の記述 | 内容 |
|---|---|
| 名目上の総大将 | 楚の考烈王。実務は春申君が執り仕切った |
| 実際の盟主 | 趙であったと考えられている |
| 秦側の総指揮 | 相邦の呂不韋であったと考えられている |
| 序盤の戦況 | 合従軍が秦の寿陵を取り、函谷関へ攻め寄せた |
| 別働隊 | 趙の龐煖が趙・楚・魏・燕の四か国の精鋭を率いて蕞を攻めたが、落とせなかった |
| 結末 | 合従軍は敗北。その後、斉を攻めて饒安を占領したのち解散した |
| その後 | 合従軍は二度と組織されず、秦による六国併合が進んだ |
注目すべきは、蕞という地名が史実にも出てくることです。龐煖が四か国の精鋭を率いて蕞を攻め、落とせなかったという記録があります。蕞は秦の首都・咸陽にかなり近い位置にあり、当時の秦が実際に危機的な状況だったことを示しています。
敗北のあと、春申君はどうなったか
この敗戦の責任は春申君に向かいました。楚の考烈王は春申君を責めるようになり、同じ紀元前241年、春申君の提言によって楚は寿春へ遷都しています。
そして紀元前238年、考烈王が病死すると、春申君は棘門で待ち伏せていた李園の刺客に襲われ、従者もろとも殺害されました。合従軍の失敗が、戦国四君のひとりに数えられた人物の失脚と死につながっています。
漫画と史実の違い
| 項目 | 『キングダム』 | 史実(紀元前241年) |
|---|---|---|
| 参加国 | 楚・趙・魏・燕・韓の五か国 | 趙・楚・魏・韓・燕の五か国で一致 |
| 総大将 | 李牧 | 名目は楚の考烈王、実務は春申君。ただし実際の盟主は趙とされる |
| 秦側の指揮 | 昌平君が咸陽から全軍を指揮 | 相邦の呂不韋が総指揮を執ったと考えられている |
| 別働隊と蕞 | 李牧が南道から別働隊を送り、蕞へ迫る | 龐煖が四か国の精鋭で蕞を攻めたが落とせず |
| 嬴政の出陣 | 王自ら蕞へ赴き民を鼓舞する | 秦王政本人が蕞で戦ったという記述は見当たらない |
| 個々の一騎打ち | 麃公と龐煖など、将同士の対決が中心 | 個別の一騎打ちの記録はない |
| 結果 | 秦が防衛に成功 | 秦の勝利で一致 |
骨格はよく一致しています。参加国、蕞という地名、龐煖が別働隊を率いたこと、そして結果が秦の勝利であること。作品が膨らませているのは、指揮系統の描き方と、将同士の一騎打ちという部分です。
なぜ函谷関の戦いはこれほど大きく描かれたのか
史実の紀元前241年の戦いには、はっきりした意味があります。これが最後の合従軍だったという点です。この敗北のあと、六国が再び手を組んで秦を攻めることは二度とありませんでした。
つまりこの戦いは、秦の統一に対して他国が組織的に抵抗できた最後の機会だったことになります。ここを守り切ったからこそ、その後の秦の一方的な進撃が始まりました。
作中でこの戦いに90話近くが費やされ、麃公と張唐という二人の将軍が失われるのも、この転換点としての重さに見合った描き方だと言えます。合従軍編を境に、秦は守る側から攻める側へ完全に切り替わっていきます。
函谷関の戦いは何日間だったのか
この戦いは、日数でも語られることの多い攻防です。
| 戦場 | 日数 | 内容 |
|---|---|---|
| 函谷関 | 15日間 | 合従軍が関を正面から攻め続ける |
| 蕞 | 7日間 | 住民が武器を取り、援軍が届くまで持ちこたえる |
函谷関での攻防は15日目を境に大規模な戦闘が収まります。合従軍が関を落とせないまま、決着がつかない形になりました。
しかしこの時点で、戦いは終わっていません。李牧は開戦の直後から、別働隊を南の山道へ送り続けていました。
その進路上にあったのが蕞です。函谷関で15日を費やしている間に、咸陽へ迫る軍が別に動いていたことになります。
開戦から合従軍が完全に撤退するまでは、ひと月ほどの期間があったとされます。作中でも屈指の長さを持つ戦役です。
アニメでは第何シリーズか
この戦役は、アニメでは第3シリーズにあたります。
| 主な巻 | 27巻 |
|---|---|
| アニメ | 第3シリーズ |
| そのシリーズの内容 | 合従軍編。函谷関の攻防と蕞の防衛戦 |
アニメは原作の話をそのまま順番に並べているわけではありません。巻の区切りとシリーズの区切りは完全には一致しないため、目安として捉えてください。
シリーズごとの原作範囲はアニメと原作の対応表にまとめています。
函谷関の戦いに関するよくある質問
合従軍編は何巻何話から始まりますか?
単行本25巻の第262話「超大国の侵攻」からです。33巻の第352話「不抜」前後で決着し、約90話にわたる長い章になっています。
函谷関の戦いに参加した国はどこですか?
楚・趙・魏・燕・韓の五か国です。史実の紀元前241年の合従軍も、趙・楚・魏・韓・燕の五か国で構成されていました。
函谷関の戦いは秦と合従軍のどちらが勝ちましたか?
秦です。合従軍は函谷関を落とせず撤退しました。史実の紀元前241年の戦いも秦の勝利に終わっています。
秦側で死亡した将軍は誰ですか?
麃公と張唐です。麃公は龐煖との一騎打ちで討たれ、張唐は韓の成恢を討ち取ったものの、自身も毒によって命を落としました。
麃公が死亡するのは何巻何話ですか?
単行本30巻の第325話です。趙の龐煖との一騎打ちに敗れました。麃公は龐煖の腕を折るところまで追い込んでいます。
史実の函谷関の戦いは何回ありましたか?
合従軍が秦を攻めた戦いは4回記録されています。紀元前318年、紀元前298年から296年、紀元前247年、紀元前241年です。
作中の合従軍編は史実のどの戦いですか?
紀元前241年の戦いです。参加国が五か国であること、龐煖が別働隊を率いたこと、蕞が攻められたことなど、複数の点が一致しています。
蕞は史実にも登場しますか?
します。趙の龐煖が趙・楚・魏・燕の四か国の精鋭を率いて蕞を攻めたものの、落とせなかったという記録があります。蕞は秦の首都・咸陽に近い位置にありました。
史実で合従軍を率いたのは誰ですか?
紀元前241年の戦いでは、楚の考烈王が名目上の総大将で、実務は春申君が担当しました。ただし実際の盟主は趙であったと考えられています。
合従軍はこのあとも組まれたのですか?
組まれていません。紀元前241年の敗北以降、六国が連合して秦を攻めることはなくなり、秦による併合が進んでいきました。
まとめ
- 合従軍編は単行本25巻・第262話から始まり、33巻・第352話前後で決着する
- 楚・趙・魏・燕・韓の五か国が攻めたが、秦は函谷関を守り切った
- 秦側は麃公と張唐を失った。麃公の死は30巻・第325話
- 史実の合従攻秦の戦いは4回あり、作中に対応するのは紀元前241年の戦い
- 史実でも龐煖が別働隊を率いて蕞を攻め、落とせずに終わっている。この敗北を最後に合従軍は二度と組まれなかった
史実を並べてみると、『キングダム』の合従軍編がどれだけ骨格を守って作られているかがよくわかります。五か国、蕞、龐煖、そして秦の勝利。史実の記録が数行で済ませている出来事に、作品は90話をかけました。その差の部分が、まさに読ませどころになっています。
この記事について
執筆・編集: マンガノシラベ編集部
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