王翦(おうせん)は裏切らない|裏切り説の真相と生存状況・史実で60万を率いた名将【キングダム】
この記事には『キングダム』本編の展開と、史実にもとづく今後の予測が含まれます。連載の進行状況は2026年8月時点のものです。
『キングダム』の秦国将軍・王翦(おうせん)。仮面で顔を隠し、味方にも本心を見せず、それでいて誰よりも勝つ。鄴攻略戦では総大将を務めた、秦軍でも異質な存在です。
この記事では、王翦が作中で生存しているのか、なぜ「裏切り」と一緒に検索されるのかを整理します。そして史実の王翦は、秦の統一を実際に支えた実在の名将です。息子の王賁も実在し、五国のうち三国を滅ぼしています。父子それぞれの記録を年代とともに調べました。
結論
- 王翦は作中で生存しています。2026年8月時点の連載は韓攻略の局面にあり、王翦は健在です。
- 史実の王翦は秦を裏切っていません。むしろ疑われないよう、自分から褒賞をねだって見せるという行動を取っています。
- 王翦と王賁は実在の父子です。王翦は趙・燕・楚を、王賁は魏・燕代・斉を攻略し、二人で六国のほとんどを滅ぼしました。
王翦のプロフィール

| 名前 | 王翦(おうせん) |
|---|---|
| 所属 | 秦国 |
| 階級 | 将軍。鄴攻略戦では総大将 |
| 特徴 | 仮面で顔を隠し、寡黙。本心を語らない |
| 戦い方 | 正面衝突を避け、条件を整えてから勝つ |
| 家族 | 嫡男・王賁 |
| 作中の状況 | 2026年8月時点で生存 |
| 史実のモデル | 秦の名将・王翦(実在) |
鄴攻略戦の総大将
王翦が最も存在感を示したのが鄴攻略戦です。総大将に任じられた王翦は、昌平君から与えられた策を採らず、独自の作戦を実行しました。周辺の城から人を鄴へ集め、兵糧攻めに持ち込むという方法です。秦の上層部にも意図を伏せたまま進めた、規模の大きな計略でした。
桓騎と楊端和とともに趙の西部を突き、鄴を落とす。この戦いによって、秦は趙に対して決定的な優位を得ています。
「王翦 裏切り」と検索されるのはなぜか
王翦の名前は「裏切り」という語と一緒に検索されることが多い将軍です。理由はいくつかあります。
| 要因 | 内容 |
|---|---|
| 本心を語らない | 仮面で顔を隠し、味方にも作戦の意図を明かさない |
| 王位への言及 | 王の座そのものに関心を示す言動がある |
| 独断での行動 | 上から与えられた策を捨てて独自に動く |
| 合従軍編での動き | 戦線を離脱したように見える場面がある。実際には函谷関の裏へ回り、別働隊を阻止していた |
合従軍編がわかりやすい例です。燕のオルドと向き合っていた王翦が戦線を離れたとき、読者にも味方にも真意が見えませんでした。しかし実際には、函谷関の裏側へ回り込もうとしていた楚の精鋭部隊を阻止するための動きでした。
結果として秦のためになっているのに、行動の途中では裏切りに見える。この繰り返しが、王翦という人物への疑いを生んでいます。
王翦は作中で死亡した? 現在の状況
結論として、王翦は作中でまだ死亡していません。2026年8月時点で連載は続いており、物語は韓の攻略が進む局面にあります。単行本は79巻まで刊行されています。
史実の王翦は秦の統一事業の中心にいた人物であり、統一の直前まで戦い続けています。作品が史実の骨格を守って進むかぎり、王翦にはまだ大きな役割が残されていると考えられます。
王賁とはどんな人物か
王賁(おうほん)は王翦の嫡男です。玉鳳隊を率い、信の飛信隊と競い合いながら武功を重ねてきました。作中では五千将まで上り詰めています。
父子の関係は良好とは言えません。単行本53巻では、玉鳳隊の関常が信に対して、王翦と王賁をめぐる噂を語ります。王賁の母・朱景が王翦と結婚する前に想い合う男がいて、その子を宿したまま嫁いだのではないかという噂です。
また、王翦軍直下の亜光軍から「王翦の嫡男である王賁に大将を務めてほしい」という要請が出た際も、王翦の返答は現状のまま戦えというものでした。父が息子を引き上げようとしない構図が、繰り返し描かれています。
そしてこの王賁も、実在の人物です。史実の王賁は父に劣らない戦功を残しています。
史実では? 王翦は秦の統一を支えた名将
史実の王翦は、秦の六国統一において中心的な役割を果たした将軍です。年代を追って整理します。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 紀元前236年(始皇11年) | 桓齮・楊端和らとともに趙を攻める。閼与と橑楊を攻め、精鋭を編成して鄴と安陽を落とした |
| 紀元前229年(始皇18年) | 大軍を率い、羌瘣・楊端和とともに趙を攻める。郭開に賄賂を与える反間の計により、李牧を斬首させた |
| 紀元前228年(始皇19年) | 趙軍を急襲して大破し、趙葱を討ち取る。趙が滅亡 |
| 紀元前227年(始皇20年) | 辛勝とともに燕を攻め、易水の西で燕・代の連合軍を撃破 |
| 紀元前226年(始皇21年) | 子の王賁とともに燕の都・薊を攻める。同年、老いと病を理由に将軍を辞して故郷へ帰った |
| 紀元前224年(始皇23年) | 李信と蒙恬の楚攻めが大敗したのを受け、秦王政の懇請により復帰。60万の大軍を率いて楚を攻め、蒙武とともに項燕を討ち取った |
| 紀元前223年(始皇24年) | 楚王・負芻を捕らえ、楚を滅ぼす |
| 紀元前222年(始皇25年) | 楚の江南を平定し、百越の諸王を降して会稽郡を置いた |
60万を要求した理由
王翦の逸話としてよく知られるのが、楚攻めの兵数をめぐるやり取りです。
秦王政が楚を攻めるにあたって必要な兵数を問うと、李信は20万で十分だと答えました。同じ問いに対し、王翦は60万でなければ不可能だと主張します。政は「王将軍も老いたな、なんと臆病なことか」と述べ、李信を起用しました。
結果は大敗です。李信と蒙恬の軍は楚将・項燕に追撃され、二つの陣営を破られて七人の都尉を失いました。秦の後方で昌平君が離反したことも敗因のひとつとして伝えられています。
敗報を聞いた秦王政は自ら王翦の故郷へ出向き、非を認めて復帰を請いました。そして60万という兵数を認めます。当時の秦が動員できる限界に近い規模でした。
田宅をねだった王翦
王翦の史実で最も特徴的なのが、出陣にあたっての行動です。60万という国のほぼ全兵力を預かった王翦は、秦王政に対して良田や屋敷、園池を賜りたいと願い出ました。
王翦の言い分は、これまで数々の戦功を挙げながらついに封侯されたことがない、というものでした。そして出発後も、5度にわたって同じ請願を繰り返します。
その理由を、王翦はこう説明しています。秦王に自分の忠誠を疑わせるようなことがあってはならない、と。
国の兵の大半を握った将軍が、私腹を肥やすことばかり考えている姿を見せる。そうすることで、謀反の意思がないと示したわけです。この判断は、王翦が戦場だけでなく王の心理も計算していたことを示しています。
史実の王翦の最期
王翦がいつどのように亡くなったかは、はっきりした記録がありません。陳勝・呉広の乱が起きた紀元前209年より前に没したとされています。
秦の統一は紀元前221年です。つまり王翦は統一を見届けたうえで、その後の混乱が始まる前に世を去ったことになります。戦場でも政争でも失われなかった、数少ない将軍のひとりです。
史実の王賁は三国を滅ぼした
王賁も実在の人物で、父に劣らない記録を残しています。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 紀元前226年(始皇21年) | 父・王翦とともに楚を攻め、楚軍を大いに破って10余りの城を落とした |
| 紀元前225年(始皇22年) | 魏の都・大梁に黄河の水を引いて水攻めにし、3か月で魏王假を降伏させ、魏を滅ぼした |
| 紀元前222年(始皇25年) | 李信と協力して燕と代を攻める。遼東で燕王喜を捕らえ、さらに代王嘉も捕らえて両国を滅ぼした |
| 紀元前221年(始皇26年) | 李信・蒙恬とともに斉を攻め、斉王建を降伏させて斉を滅ぼした |
| 紀元前219年(始皇28年) | 瑯琊台刻石に列侯「通武侯」として名が刻まれ、始皇帝の巡幸に随行した |
父の王翦が趙・燕・楚を、子の王賁が魏・燕代・斉を落としています。六国のうちほとんどをこの父子が滅ぼした計算になり、秦の統一は王家の働きに大きく依存していたことがわかります。
なお王賁の子が王離です。王離は秦の武城侯となり、その末裔からのちの琅邪王氏の著名人が出たと伝えられています。
漫画と史実の違い
| 項目 | 『キングダム』 | 史実 |
|---|---|---|
| 現在の状況 | 2026年8月時点で生存 | 紀元前209年より前に没したとされる |
| 人物像 | 仮面で本心を隠し、王位への関心をにおわせる | 慎重で用心深く、王に疑われないよう褒賞をねだった |
| 裏切り | 疑われる場面が繰り返される | 秦を裏切った記録はない |
| 鄴攻略 | 総大将として兵糧攻めを実行 | 紀元前236年に鄴と安陽を落とした記録がある |
| 李牧との関係 | 直接対決が描かれる | 正面から破らず、郭開への賄賂による反間の計で李牧を排除した |
| 王賁との関係 | 父子の距離が遠く描かれる | 共同で楚を攻めるなど、ともに戦った記録がある |
| 王賁の立場 | 玉鳳隊を率いる五千将 | 魏・燕代・斉を滅ぼし、通武侯に封じられた |
なぜ王翦は裏切りそうな人物として描かれるのか
史実の王翦の最大の特徴は、忠誠を疑われることを何より警戒した点にあります。60万を預かった瞬間に、自分から欲深く見えるよう振る舞った。これは裏を返せば、王翦ほどの立場になれば謀反を疑われて当然だったということです。
作中の王翦が「王の器」に言及し、味方にも意図を明かさないのは、この史実の緊張感を人物像として組み替えたものと読むことができます。史実では王が疑いを持たないよう先回りした人物が、作中では読者に疑いを抱かせ続ける人物になっている。方向は逆ですが、扱っているのは同じ問題です。
そして史実の王翦は裏切りませんでした。楚を滅ぼし、江南を平定し、統一を見届けてから静かに世を去っています。作中の王翦がどこへ向かうにせよ、史実というもう一つの筋書きがそこにあることを知っておくと、彼の言動の読み方は変わってきます。
王翦に関するよくある質問
王翦は作中で死亡しますか?
2026年8月時点では死亡していません。連載は韓の攻略が進む局面にあり、王翦は健在です。単行本は79巻まで刊行されています。
王翦は秦を裏切りますか?
史実の王翦が秦を裏切った記録はありません。むしろ王に忠誠を疑われないよう、自分から褒賞をねだって欲深く見せるという行動を取っています。
王翦は実在した人物ですか?
実在します。趙、燕、楚を攻略した秦の名将として『史記』などに記録があります。秦の統一事業の中心にいた人物です。
王翦が60万を要求したのはなぜですか?
楚を滅ぼすにはそれだけ必要だと判断したためです。李信は20万で足りると答え、秦王政は李信を起用しましたが、結果は大敗に終わりました。
王翦が田宅をねだった理由は何ですか?
秦王に忠誠を疑われないためです。国のほぼ全兵力にあたる60万を預かった立場で、私腹を肥やすことしか頭にない姿を見せることで、謀反の意思がないと示しました。5度も請願を繰り返しています。
史実の王翦はどうやって死んだのですか?
はっきりした記録がありません。陳勝・呉広の乱が起きた紀元前209年より前に没したとされています。紀元前221年の秦の統一は見届けています。
王賁とは誰ですか?
王翦の嫡男です。作中では玉鳳隊を率いる五千将として描かれ、飛信隊の信と競い合ってきました。史実にも実在します。
史実の王賁は何をした人物ですか?
魏、燕と代、斉を滅ぼしています。特に魏では都の大梁に黄河の水を引く水攻めを行い、3か月で降伏させました。のちに通武侯に封じられています。
王翦と王賁は本当の親子ですか?
史実では父子です。作中でも嫡男として扱われていますが、単行本53巻で王賁の出生をめぐる噂が語られる場面があり、関係が単純ではない形で描かれています。
王翦は李牧に勝ったのですか?
史実では正面から破っていません。紀元前229年、趙の重臣・郭開に賄賂を与える反間の計を用い、李牧を斬首させることで趙の防衛を崩しました。
まとめ
- 王翦は2026年8月時点の連載で死亡しておらず、健在。物語は韓の攻略局面にある
- 「裏切り」と検索されるのは仮面や独断行動によるもので、史実の王翦は秦を裏切っていない
- 史実の王翦は趙・燕・楚を攻略。楚攻めでは60万を要求し、実際にこれを率いた
- 忠誠を疑われないため、自分から田宅をねだるという行動を5度繰り返した
- 子の王賁も実在し、魏・燕代・斉を滅ぼして通武侯に封じられた
国の兵をほぼすべて預かった将軍が、真っ先にしたのが土地のおねだりだった。史実の王翦のこの一手を知ってから作中の王翦を見ると、仮面の下で何を計算している人物なのかが少しだけ想像しやすくなります。
この記事について
執筆・編集: マンガノシラベ編集部
公式コミックスおよび公開されている史料をもとに作成しています。内容に誤りを見つけられた場合はお問い合わせよりご連絡ください。
