函谷関は実在する?高さ66メートルは漢代の数字・現在の場所は河南省霊宝市【キングダム】
この記事には『キングダム』合従軍編(26巻から33巻)の展開に関する記述が含まれます。未読の方はご注意ください。
『キングダム』合従軍編で、秦の命運を分けた城塞が函谷関(かんこくかん)です。作中では巨大な壁として描かれ、五カ国連合軍の猛攻を受け止めました。
この関所は実在します。ただし「函谷関の高さは66メートル」という数字が広く出回っている一方で、それは秦の時代の関所の数字ではありません。この記事では、函谷関が実際にどこにあり、どれくらいの規模だったのか、そして現在どうなっているのかを整理します。
結論
- 函谷関は実在します。紀元前361年、秦の孝公によって築かれた中国最古級の関所です。
- 場所は現在の中国河南省霊宝市です。三門峡市に属し、霊宝の市街から北へ15kmほどの峡谷にあたります。
- 「高さ66メートル」は漢の関所の数字です。秦の函谷関ではなく、紀元前114年に前漢の武帝が築いた新関のものです。
- 秦の函谷関は現存しません。現在あるのは復元された東門の楼閣です。
函谷関はどこにあるのか

| 名称 | 函谷関(かんこくかん) |
|---|---|
| 築造 | 紀元前361年。秦の孝公による |
| 現在の場所 | 中国河南省三門峡市霊宝市函谷関鎮王垛村 |
| 位置関係 | 霊宝の市街から北へ約15kmの峡谷 |
| 地形 | 南北から山脈が迫る狭隘部。黄河沿いの回廊 |
| 現状 | 秦の関所は現存せず。東門の楼閣が復元されている |
函谷関が要衝である理由は、地形にあります。南北から山が迫り、通れる道が谷筋しかない。ここを塞げば東から秦へ入る主要ルートが断たれます。逆に言えば、秦はこの一点さえ守れば本土を保てました。
「高さ66メートル」は正確なのか
函谷関について調べると「高さ66メートル」という数字が頻繁に出てきます。この数字には注意が必要です。
秦の関所と漢の関所は別物
函谷関は歴史上、同じ場所にあり続けたわけではありません。
| 区分 | 築造 | 内容 |
|---|---|---|
| 秦の函谷関(旧関) | 紀元前361年、孝公 | 3層の楼閣が2棟あったとする記録がある |
| 漢の函谷関(新関) | 紀元前114年、前漢の武帝 | 2層の楼閣と、3重に張り巡らされた高さ66メートルの城壁 |
「高さ66メートル」は後者、つまり漢の武帝が築いた新しい関所の数字です。『キングダム』の舞台となる戦国末期の函谷関のものではありません。
時代差はおよそ250年あります。合従軍が押し寄せた紀元前241年の函谷関は、まだ秦の孝公が築いた旧関の系譜にありました。
作中の描写との関係
作中の函谷関は、巨大井闌車が届くほどの高さを持つ壁として描かれます。これは物語上の演出であり、記録に残る規模とそのまま一致するものではありません。
ただし「東からの侵入を一点で塞ぐ」という機能そのものは史実どおりです。地形が生む要害性は誇張ではありません。
史実の函谷関で起きた戦い
函谷関は戦国時代を通じて、合従軍の攻撃を何度も受けています。
| 年 | 内容 |
|---|---|
| 紀元前318年 | 楚・趙・魏・韓・燕の合従軍が秦を攻めるが敗退 |
| 紀元前298年ごろ | 斉・韓・魏の連合が函谷関を攻め、一時的に突破したとされる |
| 紀元前247年 | 信陵君が率いる合従軍が秦軍を破り、函谷関まで追う |
| 紀元前241年 | 趙・楚・魏・韓・燕の合従軍が秦を攻めるが失敗 |
作中の合従軍編に対応するのは、紀元前241年の戦いです。史実でもこの合従軍は目的を達せずに退いており、その点は作品と一致しています。
興味深いのは、函谷関が「一度も破られなかった不落の関」ではないことです。紀元前298年ごろの戦いでは突破されたとする記録があります。難攻不落という評価は、地形の有利さと、破られた回数の少なさから生まれたものと理解するのが正確です。
なぜ秦は函谷関を持てたのか
函谷関の存在は、秦という国の地理的な性格そのものです。
秦の本拠地である関中は、四方を山と河に囲まれた盆地でした。東は函谷関、南は武関、西は散関、北は蕭関。この四つの関所で外部と接しており、いずれも狭隘な地形にあります。
攻めるときは出ていけばよく、不利になれば関を閉じて引きこもれる。この地形的優位が、秦が長期戦を戦い抜けた理由のひとつです。他の六国が中原の平地で互いに削り合っていたのとは条件が違いました。
作中で合従軍が函谷関に集中せざるを得なかったのも、この構造によるものです。他に入り口がありませんでした。
関中という地形|四つの関に守られた秦
函谷関の意味を理解するには、秦の本拠地である関中の地形を見ておく必要があります。
関中は渭水の流域に広がる盆地で、四方を山と河に囲まれています。外部と接するのは限られた狭隘部だけで、そこに関所が置かれました。「関中」という呼び名自体が、複数の関に囲まれた内側という意味です。
| 方角 | 関所 | 役割 |
|---|---|---|
| 東 | 函谷関 | 中原の六国に対する正面。最重要 |
| 南 | 武関 | 楚方面への出入り口 |
| 西 | 散関 | 蜀・西方への道 |
| 北 | 蕭関 | 北方の遊牧勢力に対する備え |
攻めるときは関を出て、不利になれば閉じて引きこもる。この選択権を持てたことが、秦が百年単位の長期戦を戦えた条件でした。中原の平地で常に隣国と接していた韓や魏には、この余裕がありません。
合従軍が函谷関に集中した理由
作中の合従軍編で、五カ国連合が函谷関の一点に戦力を集めたのは必然でした。
南の武関から入ろうとすれば、楚の領内から山道を長く進む必要があります。西や北はそもそも中原の国々から遠すぎます。大軍で秦の中枢を突くなら、東の函谷関を破るしかありません。
逆に秦から見れば、防ぐべき場所が一つに絞られていたことになります。作中で秦が函谷関に総力を投入できたのは、他を気にしなくてよかったからです。ただし、その関が破られれば王都まで遮るものがない。合従軍編で蕞まで攻め込まれた展開は、この構造の裏返しでもあります。
現在の函谷関|観光地として
現在、秦の時代の関所そのものは残っていません。長い年月のなかで失われました。
現地には東門の楼閣が復元されており、観光地として整備されています。周辺には老子が『道徳経』を著したとされる太初宮もあり、関所と道教の聖地が同じ一帯にある形です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 所在 | 河南省三門峡市霊宝市 |
| 見どころ | 復元された東門の楼閣、太初宮 |
| 老子の伝承 | 函谷関を通る際に関所の役人に請われ『道徳経』を著したとされる |
| 注意点 | 現存するのは復元建築。秦代の遺構ではない |
『キングダム』の合従軍編を読んでから訪れると、地形の狭さが実感できる場所です。壁の高さより、そもそも「ここしか通れない」という谷の形が要害の本質だとわかります。
漫画と史実の違い
| 項目 | 『キングダム』 | 史実 |
|---|---|---|
| 函谷関 | 巨大な城塞。合従軍の猛攻を受け止める | 実在。紀元前361年に秦の孝公が築いた関所 |
| 高さ | 巨大井闌車が届く規模として描かれる | 66メートルは漢代の新関の数字。秦の旧関は3層の楼閣2棟の記録 |
| 合従軍の攻撃 | 五カ国連合が押し寄せ、蕞まで迫る | 紀元前241年に合従軍の攻撃があり、失敗している |
| 不落 | 破られなかった要害 | 紀元前298年ごろに突破されたとする記録がある |
| 井闌車 | 呉鳳明が巨大な攻城兵器を投入する | 攻城兵器の存在は事実だが、詳細な描写は史料に残っていない |
函谷関に関するよくある質問
函谷関は実在しますか?
実在します。紀元前361年、秦の孝公によって築かれた中国最古級の関所です。
函谷関は今どこにありますか?
中国河南省三門峡市霊宝市の函谷関鎮です。霊宝の市街から北へ15kmほどの峡谷にあたります。
函谷関の高さは何メートルですか?
よく挙がる66メートルという数字は、紀元前114年に前漢の武帝が築いた新しい関所の城壁のものです。秦の時代の函谷関の数字ではありません。
秦の函谷関はどんな規模でしたか?
3層の楼閣が2棟あったとする記録があります。漢代の新関とは別の建築です。
函谷関は今も残っていますか?
秦の時代の関所は現存しません。現在あるのは復元された東門の楼閣で、観光地として整備されています。
函谷関は一度も破られなかったのですか?
紀元前298年ごろ、斉・韓・魏の連合に突破されたとする記録があります。難攻不落という評価は、地形の有利さと破られた回数の少なさから生まれたものです。
なぜ函谷関はそれほど重要なのですか?
南北から山が迫る峡谷にあり、東から秦へ入る主要ルートがここしかなかったためです。ここを閉じれば秦本土は守られました。
合従軍編は史実にありますか?
あります。作中の合従軍編に対応するのは紀元前241年の戦いで、史実でも合従軍は目的を達せずに退いています。
老子と函谷関は関係がありますか?
老子が函谷関を通る際、関所の役人に請われて『道徳経』を著したという伝承があります。現地には太初宮が残っています。
秦にはほかにも関所がありましたか?
あります。東の函谷関のほか、南に武関、西に散関、北に蕭関があり、関中盆地を四方から守る形になっていました。
まとめ
- 函谷関は実在し、紀元前361年に秦の孝公が築いた
- 場所は現在の中国河南省霊宝市。南北から山が迫る峡谷にある
- 「高さ66メートル」は紀元前114年の漢代の新関の数字で、秦のものではない
- 秦の函谷関は3層の楼閣2棟という記録が残る
- 紀元前298年ごろに突破された記録があり、完全な不落ではなかった
- 現在は東門の楼閣が復元され、太初宮とともに観光地になっている
壁の高さではなく、そこしか通れないという地形が要害の正体でした。秦が長期戦を戦い抜けたのは、この一点を閉じれば本土が守れるという条件を持っていたからです。合従軍編の緊張感は、その事実を知るとより濃くなります。
この記事について
執筆・編集: マンガノシラベ編集部
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