昌平君(しょうへいくん)の裏切りとは?史実で楚王となり戦死した最期【キングダム】
この記事には『キングダム』本編の展開と、史実にもとづく今後の予測が含まれます。連載の進行状況は2026年8月時点のものです。
『キングダム』で秦の軍総司令を務める昌平君(しょうへいくん)。軍略の頂点に立ち、嬴政の中華統一を支える最重要人物のひとりです。
その昌平君について、繰り返し検索されているのが「裏切る」というキーワードです。忠臣として描かれている人物に、なぜそんな疑いがかかるのか。答えは史実にあります。史実の昌平君は実在の人物で、最後は秦を離れて楚王となり、秦と戦って死んでいるのです。この記事では、作中の現状と史実の最期を分けて整理します。
結論
- 昌平君は作中でまだ秦を裏切っていません。2026年8月時点で右丞相かつ軍総司令として秦にいます。
- 史実の昌平君は秦を離れ、楚王に擁立されて反乱を起こしました。紀元前224年ごろ、楚の将軍・項燕が擁立しています。
- 史実の昌平君は紀元前223年に敗死しました。王翦と蒙武が率いる秦軍に敗れ、同じとき項燕も自害しています。
昌平君のプロフィール

| 名前 | 昌平君(しょうへいくん) |
|---|---|
| 所属 | 秦国 |
| 役職 | 右丞相かつ軍総司令。秦軍全体の作戦を統括する |
| 出自 | 楚の出身。秦へ来た経緯が作中でも語られている |
| 初登場 | 単行本9巻あたり |
| もとの立場 | 呂不韋四柱のひとり |
| 史実のモデル | 昌平君(実在。『史記』秦始皇本紀に記録あり) |
昌平君は武にも優れた人物として描かれますが、その本領は軍略です。秦軍の作戦は昌平君の頭の中で組み立てられており、どの将軍をどの戦場に置くかという判断も担っています。
呂不韋四柱から嬴政の側へ
昌平君はもともと呂不韋の陣営に属していました。呂不韋四柱と呼ばれる4人のひとりです。
| 人物 | 担当 |
|---|---|
| 蔡沢 | 外交 |
| 李斯 | 法と行政 |
| 蒙武 | 武力 |
| 昌平君 | 軍略 |
その昌平君が嬴政の側につくことを明確にするのが、嫪毐の乱をめぐる単行本39巻から40巻あたりの展開です。中華統一という夢を託せるのは今の王だという判断で、呂不韋のもとを離れました。
昌平君は作中で裏切った? 現在の状況
結論として、昌平君は作中でまだ秦を裏切っていません。2026年8月時点の連載でも、右丞相かつ軍総司令として秦の統一戦争を指揮する立場にあります。
韓の攻略が完了し、趙との決着に向かういまも、秦軍全体の作戦を組んでいるのは昌平君です。裏切りの兆候が本編で描かれているわけではありません。
それでも「昌平君 裏切り」という検索が絶えないのは、史実側に決定的な記録があるからです。
史実では? 昌平君は楚王となって秦と戦った
昌平君は実在の人物です。そして史実の昌平君は、秦の宰相を務めながら、最後には秦の敵として死にました。
楚の公子でありながら秦の宰相へ
昌平君は楚の考烈王の子とされ、幽王や哀王、負芻とは異母兄弟にあたると伝えられています。つまり楚の王族です。その人物が秦で高位に上りました。
紀元前238年、秦で嫪毐の乱が起きたとき、昌平君は昌文君とともに秦王政の側について鎮圧にあたっています。『キングダム』で描かれる嫪毐の乱での立ち位置は、この史実に沿ったものです。
年表で見る昌平君の生涯
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 紀元前238年 | 嫪毐の乱の鎮圧に従事。秦王政、昌文君とともに咸陽で戦う |
| 紀元前237年ごろ | 秦の宰相の座に就いたとされる |
| 紀元前226年 | 楚の旧都であった郢の地へ移される |
| 紀元前224年ごろ | 王翦が楚王・負芻を捕らえる。項燕が昌平君を楚王に擁立し、淮南で秦に反旗を翻す |
| 紀元前223年 | 王翦と蒙武が率いる秦軍に敗れて戦死。項燕も自害する |
なお、負芻が捕らえられた年については史料の記述に幅があり、紀元前224年とする解釈と紀元前223年とする解釈があります。楚の滅亡が紀元前223年とされる点は共通しています。
なぜ楚へ移されたのか
紀元前226年、昌平君は楚の旧都であった地へ移されます。これは事実上の左遷と見る解釈が一般的です。
同じ時期、韓の旧都・新鄭で反乱が起きています。楚の王族である昌平君を秦の中枢に置いておくことへの警戒が働いた可能性が指摘されていますが、理由そのものは史料に明記されていません。
項燕による擁立
決定的な転機が紀元前224年ごろに訪れます。王翦の軍が楚王・負芻を捕らえ、楚は事実上崩壊しました。
ここで楚の将軍・項燕が、昌平君を新たな楚王として立てます。淮南を拠点に秦へ反旗を翻しました。秦の宰相だった人物が、敵国の王として秦と戦うという展開です。
しかし翌紀元前223年、王翦と蒙武の大軍に敗れ、昌平君は戦死します。項燕も自害しました。これで楚の抵抗は終わりました。
ちなみに項燕は、のちに秦を倒す項羽の祖父にあたる人物として知られています。昌平君の最期は、その一族の物語の出発点にも重なっています。
漫画と史実の違い
| 項目 | 『キングダム』 | 史実 |
|---|---|---|
| 現在の立場 | 2026年8月時点で秦の右丞相かつ軍総司令 | 紀元前237年ごろに秦の宰相 |
| 嫪毐の乱 | 秦王政の側について鎮圧に動く | 紀元前238年、昌文君とともに鎮圧に従事 |
| 裏切り | 未描写 | 紀元前224年ごろ、楚王に擁立されて秦に反旗を翻す |
| 最期 | 未描写 | 紀元前223年、王翦と蒙武に敗れて戦死 |
| 軍師としての描写 | 秦軍全体の作戦を統括する天才軍略家 | 軍略家としての具体的な記述は史料に乏しい |
作中の昌平君が持つ「軍総司令」という圧倒的な役割は、作品独自の造形です。史実の記録は宰相就任、嫪毐の乱、楚王擁立と敗死といった要点に限られています。
昌平君はいつ裏切るのか
ここから先は史実にもとづく予測になります。断定はできませんが、条件はかなり絞れます。
史実で昌平君が秦を離れるのは、楚攻めが本格化する段階です。作中はいま趙との決着に向かっており、史実の順番では趙の次が魏、その次が楚になります。
そして楚攻めの直前には、信にとって最大の試練が控えています。紀元前225年、李信は20万の兵で楚へ侵攻し、大敗しました。史実の昌平君がこの時期に楚の地へ移されていることを考えると、この敗戦と昌平君の動きが作中でつながる可能性は十分にあります。
| 年 | 出来事 | 昌平君との関係 |
|---|---|---|
| 紀元前226年 | 昌平君が楚の旧都の地へ移される | 秦の中枢から離れる |
| 紀元前225年 | 李信が20万で楚へ侵攻し、城父で大敗する | 時期が重なる |
| 紀元前224年ごろ | 王翦が60万で楚を攻め、負芻を捕らえる | 項燕が昌平君を楚王に擁立 |
| 紀元前223年 | 楚が滅亡する | 昌平君が戦死 |
ただし『キングダム』は史実の骨格を守りつつ、そこに至る理由や心情を大きく作り込む作品です。昌平君が「裏切る」と表現される形になるのか、それとも別の動機で描かれるのかは、原作を待つしかありません。
なぜ昌平君はこのように描かれたのか
作品は早い段階から、昌平君が楚の出であることを示してきました。秦の軍略の頂点にいる人物が、敵国の血を引いている。この設定は最初から置かれていた伏線です。
そのうえで作中の昌平君は、嬴政の中華統一という理想に共感して呂不韋のもとを離れました。理想を信じたからこそ秦についた人物が、史実では最後に秦と戦って死にます。この落差が物語にとって重い意味を持ちます。
中華統一とは、六国のすべてを消すことです。昌平君にとってそれは、自分の生まれた国を消すことでもあります。忠臣として描けば描くほど、その矛盾が大きくなる。作者が昌平君を秦の中枢に置き続けているのは、この矛盾を最大まで膨らませたうえで回収するためだと考えられます。
昌平君に関するよくある質問
昌平君は裏切りますか?
作中では2026年8月時点で裏切っていません。ただし史実の昌平君は紀元前224年ごろに楚王へ擁立され、秦に反旗を翻しています。
昌平君は死亡しますか?
作中ではまだ死亡していません。史実では紀元前223年に王翦と蒙武の軍に敗れて戦死しています。
昌平君は史実に実在しましたか?
実在します。『史記』秦始皇本紀に記録が残る人物です。ただし楚王に擁立されたという記述は秦始皇本紀にのみ見られます。
昌平君の出自は何ですか?
楚の考烈王の子とされ、幽王や哀王、負芻とは異母兄弟にあたると伝えられています。楚の王族でありながら秦に仕えました。
昌平君を楚王に立てたのは誰ですか?
楚の将軍・項燕です。王翦が楚王・負芻を捕らえたあと、項燕が昌平君を新たな楚王として擁立し、淮南で秦に抵抗しました。
昌平君を倒したのは誰ですか?
史実では王翦と蒙武が率いる秦軍です。紀元前223年の戦いで昌平君は戦死し、項燕も自害しました。
昌平君はなぜ秦を裏切ったのですか?
史料に動機は明記されていません。紀元前226年に楚の旧都の地へ移されたこと、楚が滅亡寸前で王を失ったことなど、状況から推測されるにとどまります。
昌平君の初登場は何巻ですか?
単行本9巻あたりです。当初は呂不韋四柱のひとりとして、呂不韋の陣営に属する立場で登場しました。
昌平君はいつ呂不韋を離れましたか?
嫪毐の乱をめぐる単行本39巻から40巻あたりの展開で、嬴政の側につくことを明確にしています。
項燕とはどんな人物ですか?
楚の将軍です。紀元前225年に李信の秦軍を破り、紀元前223年に王翦の軍に敗れて自害しました。のちに秦を倒す項羽の祖父にあたる人物として知られています。
まとめ
- 昌平君は2026年8月時点の連載で秦を裏切っておらず、右丞相かつ軍総司令として健在
- 史実の昌平君は楚の考烈王の子とされる実在の人物で、紀元前237年ごろに秦の宰相となった
- 紀元前226年に楚の旧都の地へ移され、紀元前224年ごろ項燕によって楚王に擁立された
- 紀元前223年、王翦と蒙武の秦軍に敗れて戦死。項燕も自害し、楚は滅亡した
- 作中での裏切りの時期は未描写だが、史実の順番では魏の攻略を経て楚攻めの段階にあたる
秦の軍略を一手に担う男が、いずれ敵国の王として立つ。この結末を知ったうえで読み返すと、昌平君が嬴政の中華統一を語る場面の意味が変わって見えてきます。
この記事について
執筆・編集: マンガノシラベ編集部
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