車裂きの刑とは?商鞅は戦死後に遺骸を裂かれた・嫪毐は刑として執行【キングダム】
この記事には古代中国の処刑方法に関する記述が含まれます。
『キングダム』で嫪毐が処された車裂きの刑。商鞅の最期としても語られる刑罰です。
この記事では、車裂きがどういう刑なのか、そして商鞅と嫪毐がそれぞれどのような形でこの刑を受けたのかを整理します。商鞅については「生きたまま裂かれた」と説明されることが多いのですが、『史記』の記述はそうではありません。
結論
- 車裂きは四肢と首を車や馬に繋いで引き裂く刑です。五馬分屍、轘(かん)とも呼ばれます。
- 商鞅は戦死したあと、遺骸が車裂きにされました。生きたまま処されたのではありません。
- 嫪毐は処刑として車裂きを受けています。紀元前238年の反乱の後です。
- 周の時代から記録がある古い刑罰です。秦が独自に作ったものではありません。
車裂きの刑とはどんな刑罰か

| 読み方 | くるまざきのけい |
|---|---|
| 別名 | 五馬分屍(ごばぶんし)、轘(かん) |
| 方法 | 首と両手両足を車や馬に繋ぎ、別々の方向へ走らせて引き裂く |
| 対象 | 謀反・国家反逆などの重罪 |
| 初出の記録 | 周代の文献。秦以前から存在する |
罪人の首と両腕、両脚をそれぞれ縄で縛り、その縄を5台の車あるいは5頭の馬に繋ぎます。合図とともに一斉に別方向へ走らせ、体を5つに分ける刑です。
牛が使われることもありました。速度より力が必要なためです。「五馬分屍」という別名は、この5つに分かれるという結果から来ています。
この刑の目的は苦痛を与えることだけではありません。都の市など人の集まる場所で行い、遺体をさらします。見せしめとしての機能が本体にあたる刑罰です。
商鞅は生きたまま裂かれたのではない
ここが多くの解説と食い違う部分です。
商鞅は秦の孝公に仕え、変法と呼ばれる大改革を断行しました。法を厳格に運用し、王族であっても容赦しない姿勢を貫いたため、恨みを買います。とくに太子の側近を処罰した件が尾を引きました。
紀元前338年、孝公が死去し、その太子が恵文王として即位します。反商鞅派の讒言により、商鞅は追われる身になりました。
| 段階 | 内容 |
|---|---|
| 逃亡 | 危険を察して都から逃げる |
| 挙兵 | 自分の封地である商で兵を集める |
| 戦死 | 秦の討伐軍と戦い、黽池(べんち)で敗死する |
| 車裂き | 恵文王の命により、遺骸が車裂きにされ見せしめとされる |
| 族誅 | 一族も処刑される |
『史記』商君列伝の記述では、商鞅はまず戦って敗死しています。車裂きにされたのはその遺骸です。刑として生きたまま裂かれたわけではありません。
ただし結果として受けた扱いの重さは変わりません。遺体を5つに分けて公開するというのは、法を作った本人に対する最大級の否定です。
興味深いのは、恵文王が商鞅を殺した後も、その法を廃止しなかったことです。人は消したが制度は残したという判断であり、秦の強さがここから続いていきます。
嫪毐の場合
もうひとりの有名な例が嫪毐(ろうあい)です。
嫪毐は呂不韋によって太后のもとへ送り込まれた人物です。太后の信任を得て権勢を持ちましたが、紀元前238年、政の親政開始にあたって反乱を起こしました。
反乱は鎮圧され、嫪毐は捕らえられます。そして車裂きに処されました。こちらは刑としての執行です。一族も処刑され、太后との間に生まれた子も殺されています。
| 人物 | 車裂きの形 | 年 |
|---|---|---|
| 商鞅 | 戦死したのち、遺骸を裂かれる | 紀元前338年 |
| 嫪毐 | 捕らえられ、刑として執行される | 紀元前238年 |
ちょうど100年の差があります。同じ刑が、秦の勃興期と統一直前の両方で使われたことになります。
なぜこれほど重い刑があったのか
車裂きが適用されるのは、謀反や国家反逆といった罪です。個人に対する罰というより、体制に対する挑戦への回答という性格を持ちます。
秦の法は、罪と罰の対応を明確に定めることで機能していました。何をすればどうなるかがはっきりしているからこそ、人は法に従います。その最上位に、体を分解して公開するという刑を置いたということです。
そして刑は公開されました。都の市で行い、遺体をさらす。見た人が伝え、それが抑止力になります。処刑そのものより、それが語られることのほうが目的に近い刑罰でした。
自分の法に泊まれなかった商鞅
商鞅の逃亡には、よく知られた逸話があります。
都から逃れた商鞅は、日が暮れて宿に泊まろうとしました。ところが宿の主人は断ります。「商君の法により、身分を証明できない者を泊めると宿の側が罰せられる」という理由でした。
この法を作ったのは商鞅本人です。旅人の身元を確認させることで、逃亡者や間諜の移動を防ぐ仕組みでした。制度としてはよく機能しており、実際に商鞅自身の移動を止めています。
『史記』では、このとき商鞅が「法を作った弊害がここまで及ぶとは」という趣旨のことを嘆いたと記されています。
| 商鞅が作った制度 | 内容 |
|---|---|
| 什伍の制 | 住民を5戸・10戸で組にし、連帯責任を負わせる |
| 告発の義務 | 罪を知って告発しない者も同罪とする |
| 身分証の携行 | 旅人の身元確認を宿に義務づける |
| 軍功爵制 | 戦での功績によって身分を上げられるようにする |
| 私闘の禁止 | 個人間の争いを禁じ、力は戦場でのみ使わせる |
この中で最も後世に影響したのが軍功爵制です。生まれではなく戦功で身分が上がるという制度が、身分の低い者にも出世の道を開きました。作中で信が将軍を目指せるのも、この制度が前提にあります。
そして同じ法体系が、作った本人の逃亡を許しませんでした。誰にでも等しく適用されるという性質は、例外を認めないという意味でもあります。
秦の他の刑罰
| 刑罰 | 内容 | 受けた人物 |
|---|---|---|
| 車裂き | 四肢と首を裂く | 商鞅(遺骸)、嫪毐 |
| 腰斬(ようざん) | 胴を腰の位置で斬る | 李斯(紀元前208年) |
| 族誅(ぞくちゅう) | 一族を皆殺しにする | 商鞅、嫪毐、李斯 |
| 黥(げい) | 顔に入れ墨を入れる | 比較的軽い罪に適用 |
| 劓(ぎ) | 鼻を削ぐ | 太子の側近が受けた記録がある |
李斯の腰斬は、車裂きと並んで語られる処刑です。始皇帝の丞相まで昇った人物が、二世皇帝の時代に趙高に陥れられ、咸陽の市で腰斬にされました。一族も同時に処刑されています。
商鞅・嫪毐・李斯。秦の中枢にいた3人が、いずれも公開処刑と族誅で終わっています。法で強くなった国が、その法で自分の中枢を削り続けた形です。
キングダムでの描写
作中では嫪毐の乱の結末として車裂きが描かれます。
商鞅については、作中で信が「商鞅の法があるから自分のような身分でも将軍になれる」という趣旨のことを知る場面があります。制度の作り手として言及される人物です。
その商鞅が最後にどうなったかを知ると、作中で描かれる法の性質が変わって見えます。身分に関係なく機能する法は、作った本人にも同じように適用されたということだからです。
車裂きの刑の読み方と別の呼び名
この刑罰は、いくつかの呼び方をされます。
| 表記 | 読み |
|---|---|
| 車裂き | くるまざき |
| 車裂 | しゃれつ |
| 轘 | かん |
日本語では「くるまざき」と読むのが一般的です。漢籍では「轘」の一字で表されることもあります。
いずれも、体を複数の方向へ引く形の刑を指します。見せしめとしての性質が強く、実際の執行例は限られていました。
車裂きの刑に関するよくある質問
車裂きの刑とはどういう刑ですか?
首と両手両足を車や馬に繋ぎ、別々の方向へ走らせて体を5つに引き裂く刑です。五馬分屍、轘とも呼ばれます。
商鞅は生きたまま車裂きにされたのですか?
いいえ。『史記』商君列伝によれば、商鞅は討伐軍と戦って黽池で敗死し、その遺骸が車裂きにされました。
商鞅はなぜ処刑されたのですか?
孝公の死後、恵文王が即位したためです。恵文王は太子時代に商鞅の法で側近を罰された経緯があり、反商鞅派の讒言もあって追討されました。
嫪毐はなぜ車裂きにされたのですか?
紀元前238年に反乱を起こしたためです。鎮圧後に捕らえられ、刑として執行されました。一族も処刑されています。
車裂きはいつからある刑ですか?
周代の文献に記録があります。秦が独自に作ったものではなく、それ以前から存在していた刑罰です。
馬は何頭使うのですか?
5頭です。首と両腕、両脚をそれぞれ繋ぎます。牛が使われることもありました。
車裂きと腰斬はどちらが重いのですか?
いずれも極刑です。車裂きは謀反や国家反逆に適用され、遺体を分けて公開するという点で見せしめの度合いが強くなります。
李斯はどう処刑されたのですか?
腰斬です。紀元前208年、趙高に陥れられ、咸陽の市で処刑されました。一族も同時に処刑されています。
恵文王は商鞅の法を廃止したのですか?
していません。商鞅個人は排除しましたが、変法によって作られた制度はそのまま残しました。
キングダムに車裂きは出てきますか?
嫪毐の乱の結末として描かれます。商鞅については、信が将軍を目指せる制度の作り手として言及されます。
まとめ
- 車裂きは首と四肢を車や馬に繋いで引き裂く刑。五馬分屍、轘とも呼ぶ
- 商鞅は戦って敗死し、その遺骸が黽池で車裂きにされた。生きたまま裂かれたのではない
- 嫪毐は紀元前238年の反乱後に捕らえられ、刑として車裂きを受けた
- 周代から記録がある刑で、秦が作ったものではない
- 目的は見せしめ。都の市で公開し、遺体をさらした
- 商鞅・嫪毐・李斯と、秦の中枢にいた人物が公開処刑と族誅で終わっている
法を作った人間が、その法の最上位の刑で葬られる。しかも制度だけは残る。秦という国の性格が、この一件に凝縮されていると思います。
この記事について
執筆・編集: マンガノシラベ編集部
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