悼倡后とは?趙最後の王を産んだ倡出身の后・李牧処刑に関わった記述【キングダム】
この記事には『キングダム』の展開と、史実に基づく趙の滅亡に関する記述が含まれます。未読の方はご注意ください。
趙は李牧という将を持ちながら滅びました。その李牧を処刑したのは秦ではなく、趙の王です。
そしてその王を産んだのが悼倡后(とうしょうこう)でした。『史記』は、趙の滅亡の原因をこの女性の存在に帰する書き方をしています。この記事では、悼倡后が何をした人物なのかを整理します。
結論
- 悼倡后は趙の悼襄王の后です。もとは歌舞を業とする身分の低い出身でした。
- その子が趙王遷、のちの幽繆王です。趙最後の王にあたります。
- 李牧の処刑に関わったとされます。郭開とともに讒言したという記述があります。
- 『史記』は趙の滅亡をこの人事に結びつけて記しています。正室の子を廃した判断が起点です。
悼倡后とはどんな人物か

| 読み方 | とうしょうこう |
|---|---|
| 立場 | 趙・悼襄王の后 |
| 出自 | 倡。歌舞を業とする身分 |
| 子 | 趙王遷(のちの幽繆王) |
| 出典 | 『史記』趙世家 |
| 作中 | 登場が確認できていない |
「倡」というのは、歌や踊りを職とする者を指します。当時の身分としては低い位置にありました。王の后になるような立場ではありません。
悼襄王はこの女性を寵愛し、正室を廃して后に立てました。ここから趙の宮廷が動き出します。
太子の交代
后が変われば、次の王も変わります。
悼襄王には、それまでの正室との間に嘉という子がいました。本来この嘉が太子であり、次の王になるはずでした。
ところが悼襄王は嘉を廃し、悼倡后の子である遷を太子に立てます。身分の低い出自の母から生まれた子が、正統な後継者を押しのけた形です。
| 人物 | 母 | 結果 |
|---|---|---|
| 公子嘉 | 正室 | 太子を廃される。のちに代へ逃れ代王嘉を名乗る |
| 趙王遷 | 悼倡后 | 趙王となる。のちの幽繆王 |
この判断が、のちの趙の運命を決めました。
李牧の処刑
紀元前229年、秦の王翦が趙へ侵攻します。趙は李牧と司馬尚を出して防ぎました。
秦はこの布陣を突破できず、離間の計を用います。趙の重臣・郭開に金を送り、李牧が謀反を企てていると王に吹き込ませました。
この讒言に悼倡后も関わったとする記述があります。郭開とともに、幽繆王に李牧を疑わせたという流れです。
| 段階 | 内容 |
|---|---|
| 秦の侵攻 | 王翦が趙へ攻め込む |
| 趙の迎撃 | 李牧と司馬尚が防ぎ、秦は突破できない |
| 離間の計 | 秦が郭開へ金を送る。悼倡后も関与したとされる |
| 李牧の処刑 | 幽繆王が李牧を殺す。司馬尚も解任される |
| 邯鄲陥落 | 数か月で王翦が邯鄲を落とす。紀元前228年 |
李牧を排除してから邯鄲が落ちるまで、わずか数か月でした。それまで突破できなかった防衛線が、指揮官を失った途端に崩れています。
『史記』の書き方
『史記』趙世家は、この一連の経緯を厳しい筆致で記しています。
身分の低い出自の女性を后に立て、正統な太子を廃し、その結果として国が滅びたという構成です。趙の滅亡を、悼襄王の判断とその后に帰する論調になっています。
ただし、この書き方には注意が必要です。中国の史書には、国の滅亡を女性の影響に帰する型があります。夏の妹喜、殷の妲己、周の褒姒。王朝が滅ぶ際、その原因を君主が寵愛した女性に求める記述の伝統です。
| 王朝 | 結びつけられた女性 |
|---|---|
| 夏 | 妹喜(ばっき) |
| 殷 | 妲己(だっき) |
| 周(西周) | 褒姒(ほうじ) |
| 趙 | 悼倡后 |
この型に当てはめて書かれている以上、記述をそのまま事実として受け取るには慎重さが要ります。実際に趙を滅ぼしたのは、秦の軍事力と離間の計、そして郭開を使った工作です。
趙が将を失い続けた経緯
趙は名将を出し続けた国です。しかしその将を、自国の宮廷が繰り返し手放しました。
| 将 | 失った経緯 | 時期 |
|---|---|---|
| 廉頗 | 郭開の讒言により魏へ去る | 悼襄王の代 |
| 楽乗 | 廉頗との対立で失われる | 同上 |
| 李牧 | 郭開の讒言により処刑される | 紀元前229年 |
| 司馬尚 | 李牧の処刑にともない解任される | 同上 |
秦との戦いで討たれた将より、宮廷で失われた将のほうが多いという状態です。戦場で負けたのではなく、戦える人間を自分たちで排除し続けました。
廉頗は他国へ移ってからも趙への復帰を望んでいたとされます。使者が派遣されましたが、郭開が買収して「老いて使い物にならない」と報告させました。この一件は「廉頗老いたり」という言葉として残っています。
秦の離間の計という手法
秦が趙に用いた離間の計は、この時代の常套手段でした。
強い将がいる国に対して、正面から勝てないなら内部から崩す。金を使って重臣を抱き込み、王に疑わせる。軍事費より安く、確実に効きます。
| 対象 | 使われた手法 | 結果 |
|---|---|---|
| 趙・李牧 | 郭開への買収と讒言 | 処刑される |
| 燕・楽毅 | 斉による離間の計 | 解任され趙へ亡命 |
| 趙・廉頗 | 郭開による報告の改竄 | 復帰できず |
共通しているのは、王が将を疑ったという点です。王と将のあいだに距離があるほど、この工作は効きます。秦で同じことが起きにくかったのは、政が将を守る側に立っていたためだと作中では描かれます。
作中での扱い
2026年8月時点で、悼倡后が作中に登場した描写は確認できていません。
関係する人物は登場しています。悼襄王は59巻・第644話で死亡し、幽繆王が趙最後の王として即位しました。郭開も宮廷の実力者として描かれ続けています。
| 人物 | 作中の扱い |
|---|---|
| 悼襄王 | 59巻・第644話で死亡。毒殺説がある |
| 幽繆王 | 趙最後の王として登場 |
| 郭開 | 宮廷の実力者。廉頗を追い出した |
| 悼倡后 | 登場が確認できていない |
作中の趙は、李牧と司馬尚という将を持ちながら宮廷に問題を抱える国として描かれています。その構図の一部を、史実では悼倡后が担っていました。
公子嘉のその後
太子を廃された嘉は、その後どうなったか。
紀元前228年に邯鄲が落ちると、嘉は数百人の一族を連れて北の代へ逃れました。そこで代王嘉を名乗り、燕と組んで秦に抵抗します。
正統な後継者だった人物が、国を失ってから王を名乗ったことになります。代の政権は6年続き、紀元前222年に王賁に滅ぼされました。
秦の太后との対比
同じ時期の秦にも、王の母をめぐる問題がありました。
政の母である太后(趙姫)は、呂不韋のもとにいた女性です。嫪毐との関係が国政を揺るがし、紀元前238年の乱につながりました。出自と宮廷の乱れという点では、趙の悼倡后と共通する構図です。
| 項目 | 秦・太后 | 趙・悼倡后 |
|---|---|---|
| 出自 | 呂不韋のもとにいた女性 | 倡。歌舞を業とする身分 |
| 子 | 嬴政(始皇帝) | 趙王遷(幽繆王) |
| 引き起こしたこと | 嫪毐の乱 | 太子の交代、李牧処刑への関与 |
| その後の国 | 統一を果たす | 滅亡する |
違いは、その子がどう振る舞ったかにあります。政は乱を鎮圧し、母を幽閉してでも国を立て直しました。幽繆王は李牧を殺し、国を失っています。
作中では、政が母との関係に苦しみながらも王として立つ過程が描かれます。同じ問題を抱えた2国が、逆の結末を迎えたことになります。
悼倡后の読み方と呼び名
この人物の名は、複数の呼ばれ方をします。
| 表記 | 読み | 意味 |
|---|---|---|
| 悼倡后 | とうしょうこう | 悼襄王の后で、倡出身であることを示す呼び名 |
| 倡 | しょう | 歌舞を生業とした身分 |
「悼倡后」は個人の名前ではありません。夫である悼襄王の名と、出身の身分を組み合わせた呼び方です。
史書では、身分の低い出自から后になった女性として書かれます。その書き方自体に、記した側の評価が入っている点は注意して読む必要があります。
悼倡后に関するよくある質問
悼倡后とは誰ですか?
趙の悼襄王の后です。もとは歌舞を業とする身分の低い出身で、趙最後の王・幽繆王の母にあたります。
悼倡后の読み方は何ですか?
とうしょうこうです。「倡」は歌や踊りを職とする者を指します。
なぜ趙の滅亡と結びつけられるのですか?
悼襄王が正室を廃してこの女性を后とし、正統な太子だった嘉も廃して遷を立てたためです。その遷が李牧を処刑しました。
悼倡后は李牧の処刑に関わったのですか?
郭開とともに讒言したとする記述があります。ただし主導したのは秦の離間の計と郭開でした。
『史記』の記述は信用できますか?
慎重に読む必要があります。中国の史書には、王朝の滅亡を君主が寵愛した女性に帰する記述の型があるためです。
公子嘉はどうなったのですか?
邯鄲陥落後に代へ逃れ、代王嘉を名乗りました。紀元前222年に王賁に捕らえられています。
幽繆王とはどんな王ですか?
趙最後の王です。李牧を処刑し、紀元前228年に邯鄲が落ちて捕らえられました。
悼倡后はキングダムに登場しますか?
2026年8月時点で登場した描写は確認できていません。
趙はいつ滅んだのですか?
紀元前228年に邯鄲が陥落しました。ただし代の政権が紀元前222年まで続いたため、完全な滅亡はそちらになります。
李牧を殺したのは誰ですか?
趙の幽繆王です。郭開の讒言を受けて処刑しました。秦に討たれたのではありません。
まとめ
- 悼倡后は趙の悼襄王の后。もとは歌舞を業とする身分の低い出身
- 悼襄王は正室を廃してこの女性を后とし、太子だった嘉も廃した
- その子が趙王遷、のちの幽繆王で、この王が李牧を処刑する
- 李牧の讒言には悼倡后も関わったとする記述がある
- 『史記』は趙の滅亡をこの人事に帰する書き方をしている
- ただし王朝の滅亡を女性に帰する記述の型があり、慎重に読む必要がある
- 廃された公子嘉は代へ逃れ、6年間抵抗を続けた
李牧という国を守れる将がいながら、その将を殺す王が立った。その経緯をたどると宮廷の人事に行き着きます。趙を滅ぼしたのは秦の軍だけではありませんでした。
この記事について
執筆・編集: マンガノシラベ編集部
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