咸陽は実在する?現在は陝西省咸陽市・西安の北西25キロ・項羽が焼いた秦の都【キングダム】
『キングダム』の舞台となる秦の都・咸陽(かんよう)。政が座り、呂不韋が権勢を振るい、信が将軍を目指す出発点になった街です。
この記事では、咸陽が実在した都市なのか、現在のどこにあたるのか、そしていま行くと何が見られるのかを整理します。都の名前は今も残っており、空港の名前にもなっています。
結論
- 咸陽は実在します。現在の中国・陝西省咸陽市にあたります。
- 西安の北西およそ25キロの位置です。両都市は隣接しています。
- 遷都は紀元前350年ごろ、孝公の代です。商鞅の変法と同じ時期にあたります。
- 秦の滅亡時に焼かれました。現在の咸陽市は、古代の都城跡より西側に再建された街です。
咸陽とはどんな都市か

| 読み方 | かんよう |
|---|---|
| 現在の場所 | 中国・陝西省咸陽市 |
| 西安との距離 | 北西へおよそ25キロ |
| 遷都 | 紀元前350年ごろ、孝公の代。櫟陽(れきよう)から移る |
| 都だった期間 | およそ140年。秦の滅亡まで |
| 現状 | 都市として存続。咸陽宮の遺跡が残る |
咸陽という地名は、南に渭水(いすい)、北に山があるという立地から来ています。山の南側と川の北側はいずれも「陽」と呼ばれ、その両方に当たるため「咸(ことごとく)陽」となりました。
なぜ孝公は咸陽へ移したのか
遷都の時期が重要です。紀元前350年ごろというのは、商鞅が変法を進めていた時期にあたります。
商鞅の改革は、古い氏族の力を削ぐものでした。土地制度を変え、軍功で身分が決まる仕組みを作り、法を厳格に運用します。この改革を進めるには、旧来の勢力が根を張った古い都では都合が悪かったという事情があります。
| 要素 | 咸陽を選んだ理由 |
|---|---|
| 政治 | 旧勢力の影響が薄い土地で改革を進められる |
| 地理 | 渭水流域の中心にあり、水運と農業に適する |
| 軍事 | 東へ出るのに便利で、函谷関という守りも持てる |
| 拡張性 | 平野が広く、都市を大きくできる |
結果として、咸陽は秦が中華統一を果たすまでの本拠地になりました。作中で描かれる王宮も、この都にあります。
咸陽宮と阿房宮
咸陽の中心にあったのが咸陽宮です。作中で政が座り、朝議が開かれる場所にあたります。
統一後、始皇帝はさらに大規模な宮殿の建設を始めました。それが阿房宮(あぼうきゅう)です。渭水の南側、現在の西安市の西郊にあたる位置に造られました。
ただし阿房宮は完成していません。始皇帝の死によって工事は中断し、その後の混乱の中で放棄されました。名前だけが後世に残り、巨大建築の代名詞として語られています。
咸陽の街の造り
咸陽は、統一を進めるにつれて姿を変えていきました。
『史記』には、始皇帝が各国を滅ぼすたびに、その国の宮殿を模した建物を咸陽の北の丘陵に造らせたという記述があります。滅ぼした国の宮殿を都に並べるという行為です。
これは戦利品の展示であると同時に、統一の記録でもありました。韓を落とせば韓の宮殿が、趙を落とせば趙の宮殿が建つ。都を歩けば、どこまで統一が進んだかが目で分かる造りになっていたことになります。
| 施策 | 内容 |
|---|---|
| 六国の宮殿の再現 | 滅ぼした国の宮殿を模した建物を咸陽に造る |
| 富豪の強制移住 | 各地の有力者12万戸を咸陽へ移住させたとされる |
| 武器の回収 | 天下の兵器を集めて溶かし、金人12体を鋳造したとされる |
| 道路網の整備 | 咸陽を起点として全国へ道を通す |
各地の有力者を都へ集めたのは、地方に力を残さないためです。武器を回収したのも同じ理由にあたります。統一とは、力を一か所に集めることだったという考え方が、都市の造りにそのまま出ています。
項羽が咸陽を焼いた
紀元前206年、子嬰が劉邦に降伏して秦が滅びます。その後、項羽が咸陽へ入りました。
『史記』は、項羽が秦の宮室に火を放ち、火が三か月消えなかったと記します。子嬰も殺されました。
この火災によって、140年続いた秦の都は失われます。現在の咸陽市は、古代の都城跡より西側に再建された街です。つまり今の市街地と、作中の咸陽は同じ場所ではありません。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 紀元前350年ごろ | 孝公が咸陽へ遷都する |
| 紀元前221年 | 始皇帝が中華を統一。咸陽が帝国の都になる |
| 紀元前206年 | 子嬰が降伏し秦が滅亡。項羽が咸陽へ入り火を放つ |
| その後 | 漢が長安(現在の西安)を都とする |
漢は咸陽を再建せず、渭水の南に長安を築きました。いまの西安が中国の古都として有名なのは、この選択の結果です。
櫟陽から咸陽へ
咸陽の前の都は櫟陽(れきよう)でした。さらにその前は雍(よう)です。秦は東へ進出するにつれて、都を東へ移してきました。
| 都 | 時期 | 現在の場所 |
|---|---|---|
| 雍 | 紀元前7世紀ごろから | 陝西省宝鶏市鳳翔区 |
| 櫟陽 | 紀元前383年ごろから | 陝西省西安市閻良区 |
| 咸陽 | 紀元前350年ごろから滅亡まで | 陝西省咸陽市 |
遷都のたびに都は東へ動いています。秦が西の辺境から中原へ出ていく過程が、都の位置の変化にそのまま表れています。
兵馬俑や始皇帝陵との位置関係
秦にまつわる遺跡は、咸陽と西安の周辺に集まっています。
| 遺跡 | 場所 | 内容 |
|---|---|---|
| 咸陽宮遺跡 | 咸陽市 | 秦の宮殿跡。博物館がある |
| 始皇帝陵 | 西安市臨潼区 | 始皇帝の墓。未発掘の部分が大半 |
| 兵馬俑坑 | 西安市臨潼区 | 始皇帝陵の付属施設。1974年に発見された |
| 阿房宮跡 | 西安市西郊 | 未完成に終わった宮殿の跡 |
兵馬俑は咸陽ではなく西安の東側にあります。咸陽からは60キロほど離れており、都の中心部とは別の場所です。始皇帝陵の付属施設として造られたためです。
現在、この地域の空の玄関口は「西安咸陽国際空港」といいます。秦の都の名が、そのまま今の空港名として使われている形です。
作中の咸陽
作中の咸陽は、戦場と並ぶもうひとつの舞台として描かれます。
| できごと | 内容 |
|---|---|
| 王都奪還編 | 成蟜の反乱により政が一度追われ、山の民の力を借りて奪還する |
| 呂不韋との対決 | 朝議での論戦。武力ではなく議論で決着がつく |
| 嫪毐の乱 | 紀元前238年。太后のもとに送り込まれた嫪毐が反乱を起こす |
| 論功行賞 | 戦のあとに階級が決まる場。信の昇進もここで行われる |
信が将軍まで上がっていく過程は、戦場での武功と、この都での論功行賞の繰り返しでできています。戦って勝つだけでは階級は上がらず、都で認められて初めて次の段階へ進みます。
いま咸陽で見られるもの
古代の都城は失われましたが、この地域には秦から漢にかけての遺跡が集中しています。
| 場所 | 内容 |
|---|---|
| 咸陽宮遺跡 | 秦の宮殿跡。基壇や建材が発掘され、博物館として公開されている |
| 咸陽博物館 | 秦から漢の出土品を収蔵する |
| 漢の帝陵群 | 茂陵など、前漢の皇帝の陵墓が咸陽市域に点在する |
| 楊貴妃の墓 | 唐の時代のもの。咸陽市興平にある |
咸陽の一帯は、秦だけでなく漢・唐の遺跡も重なる場所です。渭水の流域が二千年にわたって王朝の中心地であり続けたため、時代の違う遺跡が同じ地域に折り重なっています。
作中の咸陽を訪ねるつもりで行くと、実際には秦の遺構より後の時代のものを多く見ることになります。秦の都そのものは、項羽の火で失われたままです。
なお日本の成田市は、この咸陽市と友好都市の関係にあります。空港を持つ都市どうしという縁で結ばれたもので、秦の都の名が現在の国際交流の場面にも出てくることになります。
咸陽の読み方と、作中で起きた戦い
この都の名は、初見で読み方に迷うものです。
| 表記 | 咸陽 |
|---|---|
| 読み | かんよう |
| 立場 | 秦の首都 |
| 現在地 | 陝西省咸陽市。西安の北西25キロ |
「咸」は日常でほとんど使わない字です。「かん」と読み、あわせて「かんよう」となります。
作中で咸陽が直接おびやかされる場面は、そう多くありません。王都奪還編と、合従軍編で南道から別働隊が迫った場面が代表的です。
合従軍編では、咸陽そのものが戦場になったわけではありません。その手前にある蕞(さい)で食い止められたため、都に攻め込まれる前に決着しています。
秦にとって咸陽は、落ちれば国が終わる場所です。だからこそ、そこへ向かう進路上の戦いが重く描かれます。
咸陽に関するよくある質問
咸陽は実在しますか?
実在します。現在の中国・陝西省咸陽市にあたります。
咸陽は現在のどこですか?
陝西省咸陽市です。西安の北西およそ25キロに位置し、両都市は隣接しています。
咸陽はいつから秦の都になったのですか?
紀元前350年ごろ、孝公の代です。商鞅が変法を進めていた時期と重なります。
なぜ咸陽という名前なのですか?
南に渭水、北に山という立地からです。山の南側と川の北側はいずれも「陽」と呼ばれ、その両方に当たるため「咸陽」となりました。
咸陽は今も残っているのですか?
都市としては残っていますが、古代の都城は秦の滅亡時に焼かれました。現在の市街地は、都城跡より西側に再建されたものです。
誰が咸陽を焼いたのですか?
項羽です。『史記』は、秦の宮室に火を放ち、火が三か月消えなかったと記しています。
兵馬俑は咸陽にありますか?
ありません。兵馬俑は西安市臨潼区にあり、咸陽からは60キロほど離れています。始皇帝陵の付属施設として造られました。
阿房宮とは何ですか?
統一後に始皇帝が建設を始めた大宮殿です。渭水の南、現在の西安市西郊にあたる位置に造られましたが、完成していません。
なぜ漢は咸陽を都にしなかったのですか?
咸陽が焼失していたためです。漢は渭水の南に長安を築きました。これが現在の西安にあたります。
咸陽へ行くとどうやって着きますか?
この地域の空の玄関口は西安咸陽国際空港です。秦の都の名が、そのまま現在の空港名に使われています。
まとめ
- 咸陽は実在し、現在の陝西省咸陽市にあたる
- 西安の北西およそ25キロ。両都市は隣接している
- 紀元前350年ごろ、孝公が櫟陽から遷都した。商鞅の変法と同時期
- 紀元前206年、項羽が火を放ち、火は三か月消えなかったと『史記』は記す
- 現在の市街地は都城跡より西側に再建されたもので、作中の咸陽とは位置が違う
- 兵馬俑は咸陽ではなく西安市臨潼区にあり、60キロほど離れている
都の名前は残り、空港の名にもなりました。街そのものは焼かれ、位置もずれています。それでも2300年前の地名が今も生きているというのは、なかなかない話です。
この記事について
執筆・編集: マンガノシラベ編集部
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