徐福とは?始皇帝に不老不死を説いて戻らなかった方士・日本渡来伝説の実際【キングダム】
中華を統一した始皇帝が、晩年に最も強く求めたのは不老不死でした。その願いに応えると言って船で東へ去り、戻らなかった人物がいます。
徐福(じょふく)です。そして日本各地に、この人物が渡来したという伝説が残っています。この記事では、徐福が史実で何をした人物なのか、そして日本に残る伝説がどこまで確かなのかを整理します。
結論
- 徐福は『史記』に登場する実在の人物です。方士と呼ばれる、不老不死の術を扱う者でした。
- 始皇帝に東方の三神山への航海を願い出ました。童男童女数千人を連れて出航しています。
- 二度目の航海のあと戻りませんでした。『史記』は平原広沢を得て王になったと記します。
- 日本各地に渡来伝説がありますが、確たる証拠はありません。和歌山県新宮市には徐福の墓とされるものがあります。
徐福とはどんな人物か

| 読み方 | じょふく。徐市(じょふつ)とも表記される |
|---|---|
| 出身 | 斉の地。現在の山東半島あたり |
| 身分 | 方士。不老不死の術や神仙の道を扱う者 |
| 出典 | 『史記』秦始皇本紀、淮南衡山列伝 |
| 時期 | 紀元前219年ごろから |
| 結末 | 二度目の航海のあと戻らなかった |
方士というのは、当時の中国にいた技術者兼呪術者のような存在です。薬草の知識、天文、占い、錬金術めいた技術を扱いました。今の言葉で言えば、科学者と祈祷師の中間にあたる職能です。
統一を終えた始皇帝は、各地を巡遊するようになります。その道中で方士たちを重用しました。求めたのは不老不死です。
始皇帝はなぜ不老不死を求めたのか
中華を統一した時点で、始皇帝が手に入れていないものは限られていました。領土も権力も、当時の中国で得られる最大のものを持っています。
残っていたのが寿命です。
始皇帝は自らを「始皇帝」と称しました。これは初代という意味であり、二世、三世と続いて万世まで至るという構想の始まりを示します。王朝が永続することを前提に設計された称号でした。
その設計のなかで、自分自身が死ぬという事実だけが処理できません。ここに方士たちの入り込む余地がありました。
三神山への航海
徐福は始皇帝に対し、東方の海に三神山があると説きました。
| 山の名 | 説明 |
|---|---|
| 蓬莱(ほうらい) | 仙人が住むとされる島 |
| 方丈(ほうじょう) | 同じく仙境とされる |
| 瀛洲(えいしゅう) | 同じく仙境とされる |
ここに仙人がおり、不老不死の薬があるという主張です。始皇帝はこれを信じ、船と物資、そして童男童女数千人を与えました。
一度目の航海で、徐福は薬を持ち帰りませんでした。大鮫に阻まれたと報告し、再度の出航を願い出ます。始皇帝は弓の名手を同行させ、再び送り出しました。
二度目の航海のあと、徐福は戻りませんでした。
『史記』が記す結末
『史記』淮南衡山列伝には、徐福のその後についての記述があります。
徐福は「平原広沢」を得て、そこに留まって王となり、戻らなかったというものです。平原広沢がどこを指すのかは書かれていません。
この一文が、後世のさまざまな解釈を生みました。日本、朝鮮半島、あるいは中国沿岸のどこかの島。いずれも推測の域を出ません。
| 史料 | 記述の内容 |
|---|---|
| 『史記』秦始皇本紀 | 徐福が三神山を求めて出航したこと、大鮫の報告、再度の出航 |
| 『史記』淮南衡山列伝 | 平原広沢を得て王となり戻らなかったこと |
日本に残る徐福伝説
日本各地に、徐福が渡来したという伝説があります。
| 場所 | 伝わるもの |
|---|---|
| 和歌山県新宮市 | 徐福の墓とされるものがあり、徐福公園として整備されている |
| 佐賀県佐賀市 | 徐福の上陸伝説。金立神社に祀られている |
| 京都府伊根町 | 新井崎神社に徐福を祀る伝承がある |
| 三重県熊野市 | 波田須に徐福の伝説が残る |
| 山梨県富士吉田市 | 富士山を蓬莱山とする説と結びついた伝承 |
これらはいずれも伝説であり、徐福が実際に日本へ来たことを示す物証はありません。文献に現れるのも後世のものです。
それでも各地に伝承が残っているのは、渡来人が実際に日本へ来ていたという背景があるためだと考えられます。稲作や金属加工の技術が大陸から伝わった時期と重なるため、その記憶が徐福という名に結びついた可能性があります。
方士たちのその後
徐福だけが方士だったわけではありません。始皇帝の周囲には、盧生(ろせい)や侯生(こうせい)といった方士がいました。
彼らは不老不死の薬を求めると称して費用を得ていましたが、成果を出せません。やがて盧生と侯生は始皇帝を批判して逃亡しました。
これに激怒した始皇帝が、咸陽の学者たちを取り調べ、460人余りを穴埋めにしたとされます。いわゆる坑儒です。焚書と合わせて「焚書坑儒」と呼ばれる出来事の一部にあたります。
| できごと | 内容 |
|---|---|
| 焚書 | 紀元前213年。医薬・卜筮・農書以外の書を焼かせる |
| 坑儒 | 紀元前212年。方士の逃亡を機に学者460人余りを処刑したとされる |
不老不死を求めた結果が、この事件につながっています。徐福が戻らなかったことも、始皇帝の疑心を強めた要因のひとつだったと考えられます。
始皇帝の最期
始皇帝は紀元前210年、巡遊の途中で死にました。49歳前後です。
死因については、水銀を含む丹薬を服用していたことが影響したという見方があります。当時、水銀は不老不死の薬の材料と考えられていました。
不老不死を求めた行為そのものが、寿命を縮めた可能性があるということです。始皇帝陵の周辺土壌から高濃度の水銀が検出されたという調査結果もあり、この人物と水銀の関わりの深さがうかがえます。
童男童女数千人という規模
徐福の航海で見落とされがちなのが、連れて行った人数です。
『史記』は童男童女数千人と記します。加えて技術者や五穀の種も積んだとされます。これは薬を探しに行く一団の編成ではありません。移住する集団の編成です。
| 積んだもの | 用途として考えられること |
|---|---|
| 童男童女数千人 | 次の世代を担う人員 |
| 五穀の種 | 移住先での農耕 |
| 各種の技術者 | 定住に必要な生産活動 |
| 弓の名手 | 二度目の航海で同行。大鮫への対処という名目 |
この編成から、徐福が最初から戻る気がなかったという見方が出てきます。不老不死の薬を口実に、始皇帝の支配が及ばない土地へ渡るための資源を引き出したという解釈です。
『史記』が「平原広沢を得て王となった」と書いていることも、この見方を支えます。薬を探しに行った者が、行った先で王になるというのは通常の展開ではありません。
キングダムに徐福は登場するか
2026年8月時点で、徐福が作中に登場した描写は確認できていません。
作中はまだ趙の攻略段階にあり、徐福が現れるのは統一後の紀元前219年ごろです。物語がその時期まで進めば、登場する可能性があります。
作中の政は、不老不死を求めるような人物としては描かれていません。中華統一によって戦争を終わらせるという目的を掲げています。史実の始皇帝が晩年に方士を重用した事実と、作中の描かれ方には距離があります。
徐福の読み方と別名
この人物には、複数の表記があります。
| 表記 | 読み | 出典 |
|---|---|---|
| 徐福 | じょふく | 『史記』淮南衡山列伝など |
| 徐巿 | じょふつ | 『史記』秦始皇本紀での表記 |
同じ人物が、書かれる箇所によって別の字で記されています。「巿」は「市」とよく似ていますが別の字で、読みも異なります。
この表記の揺れが、後世に伝説が広がる余地を残しました。日本各地に残る渡来伝説も、こうした曖昧さの上に成り立っています。
徐福に関するよくある質問
徐福は実在した人物ですか?
実在します。『史記』の秦始皇本紀と淮南衡山列伝に記述があります。
徐福は何をした人物ですか?
方士として始皇帝に仕え、東方の三神山に不老不死の薬があると説いて航海に出ました。
方士とは何ですか?
不老不死の術や神仙の道を扱う者です。薬草、天文、占いなどの知識を持つ技術者兼呪術者にあたります。
徐福はどこへ行ったのですか?
分かっていません。『史記』は「平原広沢を得て王となり戻らなかった」と記しますが、その場所は書かれていません。
徐福は日本に来たのですか?
日本各地に渡来伝説がありますが、実際に来たことを示す物証はありません。文献に現れるのも後世のものです。
徐福の墓はどこにありますか?
和歌山県新宮市に徐福の墓とされるものがあり、徐福公園として整備されています。ただし史実の裏づけはありません。
三神山とは何ですか?
蓬莱・方丈・瀛洲の3つで、東方の海にあり仙人が住むとされた島です。
始皇帝はなぜ不老不死を求めたのですか?
統一によって権力と領土を得た一方、寿命だけは手に入らなかったためです。王朝が万世まで続くという構想と、自身の死は矛盾します。
焚書坑儒と徐福は関係がありますか?
直接の関係は記されていませんが、方士たちが成果を出せず逃亡したことが坑儒の契機になったとされます。
キングダムに徐福は出てきますか?
2026年8月時点で登場した描写は確認できていません。史実で徐福が現れるのは統一後の紀元前219年ごろです。
まとめ
- 徐福は『史記』に記録がある実在の方士
- 東方の三神山に不老不死の薬があると説き、童男童女数千人を連れて出航した
- 二度目の航海のあと戻らず、「平原広沢を得て王となった」と記される
- 日本各地に渡来伝説があるが、物証はない
- 和歌山県新宮市には徐福の墓とされるものがある
- 方士たちの逃亡が坑儒の契機になったとされる
- 始皇帝は紀元前210年に死去。水銀を含む丹薬の影響を指摘する見方がある
統一を成し遂げた人物が、最後に手に入らなかったものを求めて船を出させた。その船が戻らず、行き先の候補として日本が挙がっている。史実の余白が、二千年かけて伝説になった例です。
この記事について
執筆・編集: マンガノシラベ編集部
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